備前焼に関して、考えていることや、見聞きしたことを書いてみました。
    
      

         1.◇備前の土 ◇備前の窯 ◇ 松割木のこと ◇ 緋襷 ◇ 備前のロクロ
          
         2.◇鶴首のこと 青備前 ◇ 左馬の茶碗 ◇ ヒヨセ粘土のこと
         
         3.◇
胡麻 備前の窯印  耳付花生の形
       
        4.◇窖窯制作記録

        5.◇酸素濃度計

備前の土
 
 焼物作りには、土が一番大切にされ、「一土、二焼き、三細工」などと言われてきましたが、釉薬を使用しないで、焼膚で勝負する備前焼ほど「土」が大切な焼物はないと思われます。
現在の備前焼に使われる土は、「ヒヨセ」と呼ばれれる木節系の粘土です。
 ヒヨセは伊部、香登地区の北に位置する熊山山系(東備地区の最高峰、507m)を構成する流紋岩(石英粗面岩)が長い年月の間に風化、崩壊し一次粘土となり、地質時代区分での新世代第四期、洪積世から沖積世に雨水に洗われて流出し、低地に溜まった二次粘土層です。 熊山山系があまり大きくなく又、室町後期から採掘、使用され続けられた為、現在の出土は非常に少なく、良質の物はほとんど無いと言う状態です。
ヒヨセは、別名を田土とも呼ばれるように伊部を中心とした田畑の地下1〜3mから採掘されますが、30〜45センチほどの薄い層で、砂礫層に挟まれサンドイッチ状になっています。
一口に ヒヨセと 呼ばれている備前粘土ですが、採掘される場所によって、その性格はまさに千差万別、我々、作り手は 良質の原土の入手と共に、土の性格をつかみ、特質を生かすことに苦労しています。
 備前原土・ヒヨセの平均的化学組成は SiO2(珪酸分)60〜65パーセント、Al2O3 (アルミナ分)18〜22パーセント、Fe2O3 (鉄分)1.5〜2.5パーセント、CaO、MgO、K2O、Na2O(アルカリ分)の合計3〜4パーセント 、Ig.Loss(灼熱減量)8〜12パーセントで、耐火度はSK19、典型的なb器質粘土です。







右の写真は昭和60年頃の原土採掘現場 


備前の窯
 
 現在、備前で多く使われている窯は、登窯、穴窯(半地上式単房登窯)です。
備前窯の変遷を考えてみると、時代の要求する焼き物を作ってきた備前焼の歴史が浮かび上がって来ます。
 須恵器から出発した備前焼は、鎌倉時代には備前独自のスタイルを確立していますが、窯は酸化焼成を行う為、半地上式で横差穴のある、いわゆる割竹式登窯 となり、時代が下がると共に大型化して行きます。
室町時代末期から桃山時代には、大きさも、幅5.5メートル、長さ60メートルと巨大な共同窯(大窯)となります。
江戸時代後半まで続いた大窯も、製品需要の変化によって、天保年間に小型の登窯の導入となって行きました。それがいわゆる、天保窯で 瀬戸辺りの登窯をそのまま導入したのであろうと思われます。
小型化したと言っても、幅3.5メートル、長さ16メートルで8室の、現在から見れば大型の登窯です。
 そのような登窯が、共同窯から個人窯に変わり、胴木の間が大型化して「ウド」となり部屋数も 3〜4室の備前型の登窯となりました。焼き色の変化をつける為に、一室と二室の間に小間を作ったり、室の大きさに変化をつけたりの工夫もされています。
又、昭和和40年代頃から、桃山時代古備前の焼膚の復活が試みられ、穴窯(半地上式単房登窯)も盛んに作られます。 
   
  ※第一室を「ウド」と言い、備前独特の呼び名です。

上の絵は江戸末期に書かれた大窯の図

                   

松割木のこと
 
 備前焼は釉薬を使わない焼締め陶です。したがって備前独特の焼色は、登窯、穴窯などで、赤松の割木を用いて長時間焼成することによって得られます。
備前で使われる松割木は、他の窯業地で使われている松割木に比べて、5寸長い2尺の長さがあり、2尺の針金で束ねた松割木は約7sの重さが有ります。
 古老の話では40年ほど前から2尺の長さになったので、以前は尺5寸だったようです。
この松割木をさらに細く割ったのが、横焚用の「小割」と呼ばれる松割木です。
この「小割」に対して普通の割木は「大割」と呼ばれています。
以前は、「小割」は「大割」の中の素性の良い物を選んで、小割用の斧で、自分で割ったものでした。今は、小割したものを販売しています。
 私は、この割木一窯分、「大割」1500束、「小割」200束を約半年の間、野外で乾燥させ、窯上屋の軒に入れて、さらに半年乾燥させて使用しています。
 備前焼を作る上で大切なこの赤松も、近年は 松食虫の被害で、備前近辺だけで確保することが難しくなり、山口、広島県辺りから来ていると、割木屋さんは言っています。
 





・松割木を入れる割木屋さん



緋襷(ヒダスキ)
 
 備前焼の焼色の一つに「緋襷」と呼ばれている焼き成りがありますが、あたかも緋色の襷をかけているかの様に見えるために、この様な名がつきました。
この緋襷は本来、 窯の中のスペースを有効に利用するために大きな瓶などの中に小物を入れる、皿を重ねて焼くなどのくっつき防止のために間に入れた稲ワラのアルカリ分と素地中に含まれている鉄分が化学反応して出来た色です。
近年の研究では素地と稲ワラ中の塩化カリウムが反応してガラスが発生し、冷却中に1050℃付近で素地中の鉄分によるヘマタイト(αFe2o3)結晶ができて赤色を呈している事が解っています。
 イネ科の植物は多量(約60パーセント)の珪酸分を含んでいますので、備前では稲藁が作品の接着防止に使われてきました。
この技法は、須恵器の焼成技法から伝承されたのではないかと思われます。下に示す写真の様に、蓋付壷の身と蓋の接着防止にイネ科の植物が使われている例が見られます。 
 現在は意識的に緋襷を出すために、作品を匣鉢(さや)に詰め、酸化焼成によって作られます。還元気味では素地が茶色、緋襷も濃茶色なります。
 美しい緋襷を出す為には、素地土は鉄分の少ない良質の「ヒヨセ」が必要です。
須恵器・蓋付壷
松江・風土記の丘資料館で写す
古備前 緋襷水指(重要文化財)
 畠山記念館蔵


備前のロクロ(轆轤)
 
 陶磁器製作のロクロ技術は、伝承に寄れば紀元前2世紀頃に須恵器と共に朝鮮半島から我国に伝えられましたが、その技は日本各地で独特のロクロ技法となり、現代に伝えられています。
 備前の地では、明治の末頃までは、「地ロクロ」と言う土地を掘り下げて、ロクロを据えた独特のロクロが使われていました。ロクロの回転面は地面から2.3寸出ていて、陶工は地面に座ってロクロを挽いていたのです。
 ロクロを回すのは姫弟子(ひでし)と呼ばれていた女子衆であり、単調な仕事の疲れをいやし、陶工とのイキを合わせるための歌がロクロ唄であったと言われています。
伝承されているロクロ唄としてこのような一節があります。
       お国殿さまおえらい方ヨー 殿のおかげで窯栄えナー ヨーヨイヨーイ
窯が栄えりゃ村もろともにヨー いつの世までも老いず川ナー ヨーヨイ
ああー そら押せ そら押せ
当時の備前窯の繁栄ぶりを現す様な歌詞ですが、卑猥な唄もあったようです。
その地ロクロも京都からの職人が伝えたと言われている手回しロクロに次々と変わり、又、昭和40年頃に電動ロクロが出来、今はほとんどの人が電動ロクロを使うようになりました。
 ロクロの水挽き回転方向は右(時計回り)で、削りも同じく右回転です。
削りが右回転の窯業地は、手回しロクロ技法が伝わったのであり、九州各地、萩などの蹴ロクロ技法の窯業地では蹴ロクロの回転が右左自由に出来るので、削りは左回転です。
なぜか丹波立杭と沖縄壷屋ではロクロの回転方向は水挽き、削りとも左(反時計回り)です。
古老の話では、戦前、九州方面からの渡り職人は「蹴ロクロ」を使うため、自分のロクロを背負って旅をしていたとのことです。






手回しロクロの図
京都陶磁器説・附図より

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