鶴首のこと
 
 古備前の名品と言われている物の中に「鶴首」、又は「鶴首徳利」と呼ばれている品があります。
 二十数個が現存すると言われ、全て海揚がりです。
同じ桃山期の無骨な備前焼と違い、その姿は優美で、きめの細かいネットリとした土で作られ、作行きは丁寧、焼き成りは全て緋襷です。又、高台は備前では珍しく、いわゆる碁笥底で、同時代の作には肩に彫り込む陶印も小さく高台内に彫り込んであります。
以上のことから、鶴首は「玉壷春」の写しではないか、又、特別注文の品と思われています。
 私は姿形や、古備前が多く出土している和歌山との結びつきを考えると、「高野水瓶」の写しであり高野山真言密教の法具ではないかと言う説(森陶岳氏から聞いた説)が有力ではなかろうかと思います。下の高野水瓶の写真を参考にしてください。
 
 ※海揚がりとは、昭和15年、岡山市在の陶守氏らによって、直島沖の海底より引き揚げられた桃山時代の難破船の積荷と見られる古備前の品々のことであり、鶴首、徳利類、擂鉢、皿類、など百数十点におよび 伝世品にない初見の品も多い。
 
 ※玉壷春とは 元、明などの青磁、青花、釉裏紅に見られる形で、首が細く胴は太く丸みをおびた瓶。大阪市立東洋陶磁美術館蔵の「飛青磁玉壷春」が有名。

       ○古備前緋襷鶴首徳利
          (径12.5×高23.0)
          古備前名品図録より
 ○胡銅 高野水瓶
  現代の茶道具(五島美術館編)より

青備前
 
 備前の焼成(やきなり)の一つに青備前と呼ばれている、濃灰色や青灰色の焼色があります。
須恵器などの焼色と同じく、素地中の鉄分が冷却時の還元雰囲気で酸化第一鉄(Fe2O)となり青灰色を呈しているのです。
 古備前では匣鉢の中や、入れ子になった品が、燃料の松の熾(おき)に覆われ 偶然出来たようですが、現在では匣鉢に入れ、焼成終了直前に「炭」を投入して作ります。
素地中の鉄分量、焼成温度、冷却還元雰囲気の濃度などによって水灰色から黒に近い濃灰色まで様々な色が出ます。
 備前ではこの方法とは別に、塩窯による青備前があります。(藤原楽山氏の青備前が有名)
この方法は、単房昇炎式の小窯を松割木で焼成、最後に焚口から塩を投入して青備前を作るのですが、塩は青灰色の呈色のために使用するのでは無く、素地全体にいわゆる塩釉を生じさせ艶をつけるために用いるのです。
塩を投入した後、焚口、煙道を密閉すると松割木の熾によって窯全体に冷却還元が起こって青備前が出来ます。

 ○ 青備前諫鼓鶏香炉
  
 (江戸中期)


左馬の茶碗
 
 備前に限らず他の窯業地でも新しく作られた窯に火を入れる時、右向の馬の絵、又は漢字「馬」を逆字でかいた飯茶碗を焼いて関係者に配る習わしが有ります。左馬茶碗と言い、これを使うと「中風」にならないと言われ縁起の良い物とされています。
なぜこの様な風習があるのか良くわかっていません。私が見聞した「左馬」に下記のような諸説があります。

○古くから馬は神の乗り物として神格化され、神馬として生馬、又は扁額が神社に奉納されました。それが転じて祈願奉謝の印として絵馬を奉納した。
焼物どころでは、工人の手を離れた焼物が無事に焼けるようにと、初窯に火之神に祈って左馬を描いた物を焼く。
 左馬は、右手が色々な物をつかむところから、不浄とされたので、特に左を選んで描かれたのであろう。 (元岐阜県陶磁器陳列館長、故 熊沢 輝雄氏の文から抜粋)

○縁起物の初窯、左馬茶碗は、韓国・高麗時代鶏龍山の窯場で、沙器と言う鬼神の乗る馬を焼き窯神に供えたのが起こり。
 瀬戸では、江戸期始め初窯には必ず手のひらに乗るような可愛い馬を焼き社に供え、文化、文政の頃になると、左馬絵茶碗を焼き、「病魔、中風除け」と言って、知り合いに配ったのが今に継承されている。 (岐阜県陶磁資料館所蔵資料より抜粋)
 
○江戸の中期以降に酒席で酌をし、音曲や踊り、話し相手などで宴を取り持った女性、芸者が出てきますが、その人達が持っていた三味線の胴には「馬」の字を裏返しにした左馬が書いてあったそうです。
馬は寝るとき右倒れになり、絶対左倒れにならないので、左馬を書いた三味線を持つ芸者達も「寝やすい方には寝ない」つまり「芸は売っても身は売らぬ」と言う心意気を示したとの説がありす。
 それが「格好いい」「粋だ」ぐらいから転じて「縁起がいい」の意味になったのだろうと思われます。
 
○「馬」の字が逆さに書かれている「左馬」は、天童で生まれた天童独自の将棋駒です。このあたりでは、家を新築した方や商売を始めた方への贈り物として重宝されています。というのは、「左馬」は福を招く商売繁盛の守り駒とされているからです。
 左馬は「馬」の字が逆さに書いてあります。「うま」を逆から読むと「まう」と 読めます。「まう」という音は、昔からめでたい席で踊られる「舞い」を思い起こさせるため、「左馬」は福を招く縁起のよい駒とされています。また、「馬」の字の下の部分が財布のきんちゃくの形に似ています。きんちゃくは口がよく締まって入れたお金が逃げていかないため、古来から富のシンボルとされています。(観光パンフレット「天童と将棋駒」から引用)
 
 
○今から約400年前の天正10年6月2日、明智光秀がその主、織田信長を討ち、山崎の天王山に立てこもり天下を取ろうとしました。世に言う「本能寺の変」です。 中国遠征中の羽柴秀吉は、この変の知らせを聞くや直ちに反転して、山崎に光秀を囲みました。 
 光秀の従兄弟、明智左馬介(光春)は安土城を発し光秀の救援に向かうも、堀秀政にさえぎられて戦場に赴くことが出来ず、馬のまま琵琶湖を渡って坂本城に入りました。
 この時、左馬介の愛馬が良く湖上を渡り目的を達しましたので、世に之を「左馬介の湖上渡り」と称しております。
これより巷間では「左馬の・・・・・」と称して縁起の良いことに用いるようになりました。 
  
この様な「左馬が縁起が良い」説と、「家を新改築した際の初風呂に入れば中風にならない」とか「初物を食べれば75日長生きをする」などという素朴な初物信仰が一緒になって、初窯で左馬飯茶碗を焼いて配るという風習が出来たのであろうと推測されます。

   ○右向に描かれた馬の絵
     (多治見・川地商店写真提供)
  
  ○左馬の駒(天童市パンフレットより)   ○左馬介湖上渡りの図
   (矢先稲荷神社天井絵より)


◇ ヒヨセ粘土のこと
 
 1ページ目の「備前の土」でも書きましたが、ヒヨセ粘土は熊山山塊の流紋岩類が風化沈積して出来た二次粘土ですが、採掘される原土は場所によって色、粘度、粒度等の違いはもちろん、焼成色、耐火度などの科学的性質も色々です。
なぜそのように違いが有るのか、理由を考えてみました。
 日本列島は地質時代区分での古生代末、二畳紀〜三畳紀(約2億9千万年〜2億1千万年前)にかけてユーラシア大陸から土砂が堆積して形成された地層(本州地向斜)が隆起して出来ましたが、一連の造山運動は日本全域の規模で行われ、本州造山と呼ばれています。
 備前地方、熊山山塊の地質はこの古生代に生成された泥質岩類を基盤に、中生代白亜紀(約1億4千年〜6千5百年前)の活発な火山活動によって流出した流紋岩、石英安山岩類で出来ています。又、泥質岩類と火山性岩類との接したした場所にはマグマの接触変成作用を受け、変成岩(ホルンフェルス)となっている所もあります。
 古生界泥質岩類層と中生界火山性岩類の境界は地質図によると、熊山山塊の西端部分から備前市坂根ー福田ー長船町磯上の線上に見られます。又、医王山北側、浦伊部の一部にも泥質岩類が見られます。
 一つには、この泥質岩類(堆積岩)のを母岩とした粘土の混入がヒヨセ粘土の性格の違いであり、具体的な例としては、大内、香登で採掘されたヒヨセ粘土は、他の地域のヒヨセ粘土より耐火度が低いという違いであると思われます。
下に備前地方の地質略図を付けておきますので、参考にしてください。
 もう一つの理由に、ヒヨセ粘土が沈積した場所が海中であった場合、海水に含まれている、アルカリ塩類(Na、Mgなど)による影響が考えられます。
粘土中のアルカリ塩類は耐火度を低くし、又、焼成中にブク(火ぶくれ)が出やすいなど悪影響を与えます。
 ヒヨセ粘土が沈積した沖積世の頃、海面がどの辺りであったのか判明しませんが、現在より高かったのではないかと思われます。低地で採掘された原土に貝殻の細片が見られる物もあります。
 以上の二つが主原因と考えられますが、沈積時、原土への他の鉱物や有機物(植物)の混入なども原因になっていると思われます。
                ○備前地方表層地質略図
 

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